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「文明四年」(1472)十月廿日
詫磨重房書状 刊本276号
高瀬泰朝書状(221)・肥前徳鶴丸書状(222)・詫磨重房書状(223)は文明四年、阿蘇社および阿蘇本堂造営の棟別銭徴収依頼について、承諾の意向を菊池重朝の老者に伝えた書状である。
高瀬泰朝は、南北朝期以来玉名郡高瀬を本拠とした菊池一族で、武時の子武尚を初代とする。
肥前徳鶴丸は、南北朝期以来玉名郡玉名荘を本拠とした菊池一族。この家は武時の子武澄を初代とし、代々肥前守を称し、宗家に次ぐ家として重んじられたが、後嗣が絶え、持朝の子為安が家名を継いだ。為安は寛正六年高良山合戦で討死し、幼名の彼はその子であろう。
詫磨重房は、大友系詫磨氏に代って詫麻郡を本拠とした菊池一族で持朝の子為房が初代とされる。重房はその子とみられる。
彼らは菊池氏直轄領の肥後北部七郡内に本拠を持つ領主であるが、家臣ではなく一族であるので、一応老臣から棟別銭徴収の依頼があり、それに対する返書であるとみられる。(阿蘇品)