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寛正五年(1464)六月吉日
阿蘇大宮司惟忠阿蘇御田出仕次第<おんだしゅっししだい>写 刊本271号 (1/4)
寛正五年(1464)、大宮司惟忠が阿蘇御田植祭<おたうえまつり>に出向いた記録を、元和元年に阿蘇惟善(江戸時代の初代阿蘇社神主)が書写したもの。惟忠は十二騎の侍を従えて、阿蘇社・国造<こくぞう>社の御田植祭に出向き、これを現地の御田屋では神官・供僧らが出迎え、大宮司は末座の神人たちにまで盃を与えて社家棟梁の立場を確認させたことが分かる。
中世大宮司が年中神事に出仕することはかつてなく、惟忠の行装と儀式次第は末代のためにと記録されたが、その意味は何か。南北朝内乱は室町時代になっても阿蘇氏の内部で続いていた。しかし、矢部の惟村系の惟忠に実子がない状況下で、阿蘇の惟武系の惟歳を養子とする両家合体が宝徳三年(1451)に成立し、阿蘇・益城二郡の政治統一が成立した。その後、領内安定を見定めた惟忠は、はじめて阿蘇社大祭に出向き、社家にも盃を与えたことで、大宮司が社家・武家双方の支配者として君臨した記念として記録されたのであるともいえよう。(阿蘇品)