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第6巻
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第6巻 - 5 後醍醐天皇綸旨 刊本91号

第6巻 - 5 後醍醐天皇綸旨 刊本91号
66 第6巻 - 5 後醍醐天皇綸旨 刊本91号
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建武二年(1335)十一月廿八日
後醍醐天皇綸旨 刊本91号

65・66はともに、日付こそ異なるが、足利尊氏・直義<ただよし>兄弟らに反逆の企てがあり誅罰を加えるので、鎌倉へ発向し軍忠に励むようにという後醍醐天皇の命令を伝えた綸旨である。前者は前大宮司惟時に宛てたもので、かれが隠居の身であることを意識して氏名が本文中に記されている。奉者の「右中将」は、内大臣吉田定房の子宗房か。後者は、大宮司惟直に宛てたもので、宛所を明記した上に、「一族を相催し」とあるように、惣領である惟直への敬意が表されている。「左少弁」は、甘露寺<かんろじ>藤長か。この年七月、北条高時の遺子時行らは信濃国で挙兵し、直義軍を敗走させ鎌倉を攻略した(中先代の乱)。尊氏は後醍醐に鎌倉下向<げこう>の勅許を要請したが、政権からの離反を警戒されて受容されなかったので、独断で下って鎮定し、そのまま帰洛命令に従わずに鎌倉にとどまった。十一月二日、直義は新田義貞を討つと称して諸国に兵を募り、尊氏はかれの追討を請う奏状<そうじょう>を提出した。憤激した後醍醐は、尊良親王を将軍、義貞を大将とする追討軍派遣を決定した。こうした建武政権の対応にもとづく綸旨である。次の「上島惟頼軍忠状」にみられるように、直義は伊豆国箱根で、尊氏は駿河国竹下で戦い、勝利した尊氏・直義が京都をめざすことになった。(柳田)

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