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元弘三年(1333)七月十日
上島惟頼着到状<ちゃくとうじょう> 刊本74号
肥後国御家人上島惟頼が味方に馳せ参じたことを、足利高氏の奉行所に提出した軍忠状<ぐんちゅうじょう>。着到(帳)に名前を記録してもらい、「承了(花押)」とあるように、高氏の証判を得て返付され、これを恩賞や安堵請求の証拠にした。高氏は六月には六波羅探題跡地に奉行所を設け、各地の武士からの着到を受け付けていた。惟頼宛ての軍勢催促状は残っていないが、求めに応じての馳参であったと考えられる。上島氏は阿蘇氏一族で、惟頼の祖・津屋惟盛は健軍社大宮司を勤め、祖父の惟秀の代から益城郡上島郷地頭職を領有して上島氏を名乗りとした(刊本36号・38号・67号・69号参照)。本文書では、惟頼が、阿蘇氏が公式の場で用いる宇治姓を称していることが注意される。庶家として独立する動きをみせつつも、ここでは阿蘇大宮司の一族であることを強調することが得策との判断が働いていると推定される。裏花押の使用は着到が間違いないことを強調したものである。(柳田)